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マルコ・ポーロと『東方見聞録』― ヴェネツィア商人が広げた世界像

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ヴェネツィアの商人一族に生まれた一人の青年が、24年をかけてユーラシア大陸を横断し、元の皇帝クビライに仕えた――そんな話を聞くと、まるで作り話のように感じませんか。でも、これは『東方見聞録』として今も語り継がれている、マルコ・ポーロという実在の人物の記録なんです。

前回の記事では、ヴェネツィアという海洋国家がどのように交易網を広げていったかを見てきました。今回はその交易network(ネットワーク=人やモノがつながり合う仕組みのこと)が生んだ、もっとも有名な一人の旅人にスポットを当てていきます。

マルコ・ポーロとは何者か

マルコ・ポーロ(1254年〜1324年)とは、ヴェネツィアの商人一族に生まれ、13世紀後半にユーラシア大陸を横断してモンゴル帝国(元)の宮廷まで旅した商人・旅行家です。父ニッコロと叔父マッフェオはすでに東方交易の経験があり、1271年、17歳のマルコは2人に連れられて2度目の東方旅行に出発します。

このとき目指したのは、当時のモンゴル帝国の皇帝であったクビライ・カアン(フビライ・ハン)の宮廷でした。陸路でシルクロードを渡り、パミール高原やゴビ砂漠を越えて、一行が元の都・大都(現在の北京)にたどり着いたのは1275年ごろとされています(Britannica)。

ここで私が驚いたのは、単に「行って帰ってきた」だけの話ではないということです。マルコはクビライに気に入られ、そのまま元の宮廷に仕えることになりました。中国各地への視察や外交の任務を任され、雲南地方や東南アジア方面まで足を延ばしたとも言われています。ヴェネツィアを出てから中国滞在まで含めると、実に約24年。そのうち元の宮廷に仕えた期間だけでも17年に及びます。

帰路につくきっかけは、モンゴル帝国内の政略結婚に伴う王女の輸送でした。1290年前後、海路(インド洋経由)で王女をペルシアまで送り届ける船団に同行するかたちで、ようやく西への帰途につきます。ヴェネツィアに戻ったのは1295年。すでに40歳を超えていました。

『東方見聞録』はどうやって生まれたのか

ヴェネツィアに帰国したマルコ・ポーロですが、平穏な生活はそう長くは続きませんでした。当時のヴェネツィアは、地中海の交易覇権をめぐって同じ海洋都市国家のジェノヴァと激しく争っていたんです。

1298年9月、南ダルマティア(現在のクロアチア)沖のクルツォラ島付近で、両国の艦隊が激突します。これが「クルツォラの海戦」です。ヴェネツィア側は多数のガレー船を失い、5000人にのぼる捕虜が出たと伝えられています(クルツォラの海戦 - Wikipedia)。マルコ・ポーロもヴェネツィア海兵の一員としてこの海戦に加わっており、そのままジェノヴァ側の捕虜となってしまいます。

ここで歴史の面白いめぐり合わせが起きます。同じ獄中に、ピサ出身の物語作家ルスティケロ(ルスティケッロ・ダ・ピサ)がいたのです。マルコが語る東方の旅の話に感銘を受けたルスティケロが、その口述を筆記してまとめたもの――これが『東方見聞録』(原題は「イル・ミリオーネ(Il Milione)」、または「世界の記述」)です(東方見聞録 - Wikipedia)。

つまりこの本は、マルコ・ポーロが自分で書いたものではなく、獄中で「語った」内容を、たまたま同房にいた作家が「書き取った」というかなり偶然性の強い成立過程を持っているんです。私はこのエピソードを知ったとき、名著というのは狙って生まれるものばかりではないのだな、と妙に感慨深くなりました。

何が書かれていたのか ― 中世ヨーロッパのアジア観を決めた本

『東方見聞録』には、元の宮廷での暮らしぶりや、中国各地の都市、香辛料や絹といった交易品、さらにはインド洋の島々の様子までが記されています。当時のヨーロッパ人にとって、これはほぼ未知の世界の情報でした。

特に注目したいのは、日本についての記述です。マルコ・ポーロ自身は日本を訪れたことはありませんが、伝聞情報として「ジパング(Cipangu)」という黄金の島の話を書き残しています。これが、日本という国の存在が西洋に文字として初めて伝わった契機になったと言われています(この点は、また別の記事で詳しく掘り下げたいと思います)。

『東方見聞録』は当時の常識では「誇張された作り話」と受け止められることも多かったようですが、後世への影響は絶大でした。もっとも有名な逸話が、クリストファー・コロンブスです。コロンブスは『東方見聞録』を愛読しており、自身が所有していた写本には、余白にびっしりと書き込みがされていたことが分かっています。アジアへの黄金の期待が、大西洋を渡る航海を後押しした一因だったとする見方もあるんです。

史実性をめぐる議論 ― 「本当に中国へ行ったのか」

ここまで史実として語られてきた話を紹介してきましたが、一つ触れておかなければならないことがあります。近年の研究では、マルコ・ポーロが本当に中国まで到達していたのかどうかを疑問視する見方も出てきているんです。

疑問視される主な理由として挙げられるのが、万里の長城についての具体的な記述がないこと、漢字や印刷術、お茶の文化についての言及が見当たらないことなどです。これほど長期間中国に滞在していたにもかかわらず、当時の中国社会において特徴的なこれらの要素にまったく触れていないのは不自然だ、という指摘です。

一方で、元の駅伝制度(ジャムチ)や紙幣制度など、実際に現地で見聞きしなければ書けないような具体的な記述も多く含まれており、伝聞やペルシア語文献の孫引きだけでは説明がつかないとする反論もあります。

私自身は、この議論に軍配を上げられるほどの専門知識を持ち合わせているわけではありません。ただ、一つ言えるのは、実際に中国まで到達したかどうかという史実性の議論と、この本が同時代・後世のヨーロッパに与えた影響の大きさという事実は、分けて考える必要があるということです。仮に一部が伝聞や誇張を含んでいたとしても、『東方見聞録』が中世ヨーロッパのアジア観を決定づけ、大航海時代の一つの引き金になったという事実そのものは揺るがないと考えられます。

もう一人の東方への旅人 ― ジョヴァンニ・ロレダン

マルコ・ポーロほど有名ではありませんが、彼のあとに続いた東方交易の旅人もいます。ヴェネツィアの貴族、ジョヴァンニ・ロレダンです。1338年、インドへ商用旅行に出た記録が残っています(塩野七生『海の都の物語』p.177-178)。

ロレダンは現地の権力者に時計や噴水器といった贈り物を届け、真珠を買い付けて帰路につきましたが、その途上で病死してしまいました。ここで興味深いのは、ヴェネツィア政府がこうした遠方交易の遺族や投資家の権利を法律で保護する仕組みを整えていたという点です。海の向こうでの死亡や事故のリスクを、個人の運任せにせず、国家の制度として引き受ける。これはマルコ・ポーロの冒険譚とはまた違う角度から、ヴェネツィアという国の「商業リスク管理」の巧みさを物語るエピソードだと感じます。

FAQ ― よくある疑問

Q1. マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのですか?

多くの歴史研究者は実際に中国(元)まで到達したと考えていますが、本文中の記述に不自然な欠落があることから、一部の研究者は伝聞情報を中心にまとめた可能性を指摘しています。この論争には決定的な結論が出ているわけではありません。

Q2. 『東方見聞録』とは何の本ですか?

マルコ・ポーロが語った東方(中国・元朝・インド洋世界)での見聞を、獄中で同房となった作家ルスティケロが口述筆記してまとめた旅行記です。原題は「イル・ミリオーネ」または「世界の記述」といいます。

Q3. なぜコロンブスと関係があるのですか?

コロンブスは『東方見聞録』の愛読者で、自身の写本に大量の書き込みを残していました。アジアへの憧れがコロンブスの大西洋航海を動機づけた一因とされています。

マルコ・ポーロの旅、年表で振り返る

出来事
1254年 ヴェネツィアの商人一族に誕生
1271年 父・叔父とともに2度目の東方旅行へ出発(17歳)
1275年頃 元の都・大都(現北京)に到着、クビライに仕える
1275〜1292年頃 元の宮廷に仕え各地を視察(約17年間)
1290年前後 王女輸送に同行し海路で帰途につく
1295年 ヴェネツィアへ帰国
1298年 クルツォラの海戦でジェノヴァの捕虜に。獄中でルスティケロと出会う
1298年頃 『東方見聞録(イル・ミリオーネ)』成立
1324年 ヴェネツィアで死去

まとめ

マルコ・ポーロという人物の旅そのものも壮大ですが、私が今回あらためて面白いと感じたのは、『東方見聞録』という本の成立過程です。ヴェネツィアとジェノヴァという二つの海洋国家の争いがなければ、マルコが捕虜になることもなく、ルスティケロという作家と出会うこともなかった。偶然の巡り合わせが、後の大航海時代を動かす一冊を生んだというのは、歴史の面白さそのものだと思います。

書評ハブ記事では、ヴェネツィアという国そのものの成り立ちを紹介しています。マルコ・ポーロの旅を生んだ背景にある「交易国家ヴェネツィア」の姿にも、あわせて触れてみてください。

関連記事

なお、マルコ・ポーロが伝えた「ジパング」の記述が、日本という国を西洋に初めて知らしめた契機になったという話は、また別の記事でじっくり取り上げたいと思います。

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